さよならナミおばあちゃん

祖母が逝去し、緊急帰国した。いつか近い将来くるとはわかっていたが、先月日本に帰って顔あわせたばかりである。心の準備ができないまま、その日をぼくだけが異国の地アメリカで迎えたことは、ぼくの心境を極めて複雑にした。

幸い、実際に亡くなった日からお通夜までに間があったことと、ぼくの新しい勤め先が先方の都合で入社を一週間後らせて欲しいと連絡があり一週間まるまる空いていたことが重なり、ぼくは難なく日本に戻ることが出来た。まだ5ヶ月の赤ん坊とワイフを残していったのが唯一の心残りではあったが。

おばあちゃんは89歳で亡くなられた。おじいちゃんが亡くなってから実に31年生き長らえた。ぼくが産まれて半年たたないうちにじいちゃんが亡くなった為、ぼくのこれまでの人生の期間はすべておじいちゃんを亡くしてからのおばあちゃんの人生の期間に等しい。これだけでも十分偉業だ。「大正・昭和・平成の激動の時代を生きた」とうちの父は喪主としての挨拶で表現していた。

ひ孫の顔を見るまでは頑張るといって、本当に頑張ってくれたおばあちゃんに「ありがとう」とお礼をしたい。幸い、ひ孫と一緒に映ったビデオや写真が残っている。あいつが大きくなったら見せてあげよう。

次から日本に帰ってもおばあちゃんがいないのは不思議な感じだけど、仏様にお線香をあげよう。おばあちゃんはいなくなったのではなく、仏様になったのだから。


そうそう、うちが浄土真宗だということをはじめて知った。本願寺派西京寺のお坊さんがとてもためになる説教をしてくれたので、以下備忘録として記しておく。

●人間というのは自己中心でこだわった行き方をしてしまう存在だ。そのこだわるが故にいろいろと失敗をしてしまうわけだが、それはそのままでいいのです。阿弥陀様がすくってくれます。大切なことはそれに気付くということです。

●一人で収骨するのは、命を終えるということを必然として自分でしっかり受け止めるということ。つまり、自分の命を終えるまでにどういう生き方をするか、それを深く考えるということです。二人で収骨するのは、死という災いの発生を半減するためで、それは死を恐れているということです。願わくは死は自分のほうではなく相手のほうにいっておくれと願っているということです。夫婦二人で収骨することがありますが、お互いにお互いが亡くなってくれと願っているのは滑稽なことです。

●生き返りの道を変えなくていいのは、死者を道に迷わせる必要がないからです。願わくは死者に成仏していただきたい。

●塩が入っていないのは、死者が不浄なものでないとの考えからくるものです。


さよなら、ナミおばあちゃん。これまでありがとう。これからも見守っていてください。