A good listener is better than a good thinker.

老人は云った「人は常に自分のフィルターを通して物語をつくる」と。

自分のフィルターが正常に機能しているかどうか確認することは極めて少ない。なぜならば多くの人は通常、自分のフィルターは正常に機能していると勝手に決め付けているからである。それ自体が自分のフィルターを通して作られた物語であることに気づく人は極めて稀である。

「反省」、客観的に考察すべく、言葉の意味を大辞林で調べてみた。

「振り返って考えること。過去の自分の言動やありかたに間違いがなかったかどうかよく考えること。」

とある。Thinkerか。。所詮それも自分のフィルターを通して考えているのかと気づき愕然とする。自分で考えた結果、間違いがあったかどうかを判断するのはこれまた自分である。なんと皮肉なことか。

結局、人間とは本質的に自己中心的である。そのようにできている。それが表に出るかどうかの違いはあれど(その違いこそ大きかったりするわけだが)本質的にはなんら変わりはない。

この本質は国民によって変わるものなのか。表に出して直接的に表現するのがアメリカ的Low Contextカルチャーであり、間接的に奥ゆかしく表現するのが日本的High Contextカルチャーであると一般的には言われている。表現の手法と程度の違いこそあれど本質的には国民性に関わらず自己中心的だ。

自己中心と自己満足は同義語か。国民性によって違いはあるのか。日本人には、相手の真意を読み取ってその期待に応えることに快感を覚える人も少なくない。だからこそ「阿吽の呼吸」なんて言葉がある。「(無言の)間」に意味をもつ数少ない国民である。一見、人のための尽くすようにも聞こえるが、本質的には自己満足の世界である。

一方、アメリカ人には自分の要求を主張し、それが通ることに快感を覚える人が少なくない。自己が強調されてはいるものの、本質的にはやはりこれも自己満足の世界である。

結局、人は自己満足の世界に生きている。反省とは聞こえはいいが、これもまた自己満足の世界。では、自己満足であることを反省することはどういうことか。これも結局は自己満足なのか。自己中心であることは自己を満足させるための手段であるといえよう。

それでは、自己の欲求とはいったいどのようにしたら満たされるのか、組織行動学者たちはいろいろと考察したが、マズローの欲求五段階説の定義によると、衣食住の最低限の欲求が満たされた上で、人から評価されたり、自己実現することに満足感を感じるという。ハーズバーグの動機付け/衛生理論によれば、作業環境になんら問題がない状態で、モチベーションが満たされると人は満足感を感じるという。これらからいえることは結局、人間は自己中心だということ、そうあり続けることが自己を満足させてくれるというのが学者の研究結果である。

かくして人は自分に都合のいい物語をつくってしまうのである。頭の中で、自分のフィルターを通して自己が満足するように。

自分ひとりの社会であればきっとそれはそれでHappyだろう。しかしながら人と人とのかかわりのある社会ではどうか。

自己満足自体は決して悪いことではない。しかしながら、自己中心であるがためにWin-loseの関係をつくるのはよろしくない。Win-Winの自己満足状態をつくるべきである。

Win-Win関係を構築する方法は二つある。一つは、相手の考えを熟考することであり、考え方がずれていたとわかれば修正する方法。もう一つは、相手の考えを聞くことである。どちらが確実か。応えは明白である。

今日の格言(オリジナル)、'A good listener is better than a good thinker.'


今日久々に反省する出来事があってこのような熟考をしてみたが、それ自体が自己満足である。。。今後反省する機会すらがないように、これからはGood Listenerを意識したい。