ホストファミリーを訪れて

Tom2004-11-28


アメリカの地をはじめて踏んだのは15歳、高校一年生のときだった。交換留学のプログラムに申し込んでシアトルにホームステイをした。たった二週間の滞在ではあったが、ぼくの人生に与えた影響はその当時からしてみれば大きなものであり、そして今振り返ってみてもやはりその経験がターニングポイントになったといえよう。そのことはぼくが、大学卒業後に国際通信会社に就職し、UCLAでHRのサーティフィケートを取得し、いまアメリカで働いていることが証明している。

あれから実に16年。既に結婚し、子供もできた。少年のぼくの思い出をもつホストファミリーにおっさんになったぼくが家族と一緒に会いに行ったのだ。ぼくがホームステイをしたのがシアトル、だが彼らは常夏の地アリゾナ州のユマをリタイア後の生活の地として選び移住した。アリゾナとカリフォルニアは実は隣り合わせの州だ。メキシコの国境に近いサンディエゴからI-8で東に200マイルほどいき、コロラド川を越え、アリゾナ州に入ったところにユマは位置する。サンノゼからは600マイル、車で10時間。そう車でえっちらおっちらいったのである。

アリゾナの州境を越えると胸のドキドキ感は喩えようもないくらい高まった。なんといっても16年ぶりである。初めて会ったときからリタイアの近い年齢だったから、もうよぼよぼになっちゃったかなーとか。あーだこーだ考えながら、メールで教えてもらった道案内をたよりに少しずつ近づいていく。55番街を右折して左手にある黄色い家、、、間違いない。木彫りの看板にホストファミリーの名前が彫ってあった。

今日はサンクスギビングデー。近所の友達(老人たち)が既に集まっており、家の中からなにやら賑やかそうな声が聞こえる。そこへ大声を出して訪問したことを告げると、Jimがすぐに出迎えにでてきてくれた。少し老けた感じはするが、あの時と同じようにまるでカウボーイのようにウエスタンルックで決め、大振りのアクセサリーのついたベルトにウエスタンブーツが妙に似合っていた。そうジムはテキサス出身だ。車にはBushを支持するステッカーがいまだに貼ってあった。そしてキッチンから、ディナーの準備を一時中断して、Deがやってきた。当時の1.5倍ほど大きくなっておりすっかり肝っ玉母さんになっていたが、優しい表情は昔のままだ。

ぼくらを含めて総勢12人でトラディショナルなサンクスギビングディナーをエンジョイし、それぞれ自宅へ帰っていった。ぼくらとホストファミリーだけになると、16年間のギャップを埋めようととにかく話した。今やってること、大学、仕事、趣味、結婚、家族のこと。話は尽きないようで尽きてしまう。16年の歳月を埋めるにはどこからはじめてどのくらいはなせばいいのか加減が見当付かない。時差と長距離ドライブの疲れもあって早めに就寝した。

泥のように寝た後の目覚めは快適だった。目覚めをよくしてくれたのは、淹れたてのコーヒーの香りのせいなのか、それともシアトル仕込みの濃い目に淹れたコーヒーのコクのせいなのか。そんなことはどうでもいいくらい快適な朝だった。カリカリに揚げたベーコンエッグの朝食は時が経ってもなんら変わりのないことを教えてくれた。

今日は一日フリーデー。サンドバギーに乗せてもらい山をかっ飛ばし、マーケット(かなり寂れていた)を散策、デイツヤシという椰子からとれる果実を求めて果樹園に行き、夕食はピザを注文した。アメリカのリタイヤメントライフってこんな生活なのかな。それでもビジターがきているから精一杯いろんなところ連れて行ってくれたんだと思う。

あっという間に二日間が過ぎ、いよいよ帰る日となった。16年という歳月を経てもなお温かく迎えてくれたホストファミリーにとても感謝している。ぼくらの滞在した部屋には、ぼくがホームステイをした当時書いたアプリケーションフォームが置かれており、なぜアメリカにいきたかったのかという初心を思い起こさせてくれた。当時挙げた亀のお守りは、車こそ変わったもののミラーにずっとぶる下げてくれているのだという。当時別れたときは、いいたいことが何も表現できずにただないていたぼくは、今ではきちんといいたいことを表現できるまでに成長していた。夏のユマは暑い。だからユマでリタイアメントライフを送る人は夏の間は邦に帰るのだという。シアトルでまた会おう。See you again.